Tactics

バラ色の日々

BURN

JAM

LOVE LOVE SHOW

I don't know

天道虫

未来はみないで

So Young

Suck Of Life

パール

砂の塔

ALRIGHT

DANDAN

悲しきAsian Boy

ロザーナ

Shock Hearts

Love Communication

TVのシンガー

Father

Horizon

The Yellow Monkey

13 rooms
THE YELLOW MONKEY(ザ・イエローモンキー)は、日本のロックバンド。愛称・略称はイエモン。1989年に結成、2001年1月より活動を停止し、2004年7月7日をもって解散した。なお「イエローモンキー」とは、主に西洋圏で使用される東洋人に対する蔑称である。この名前は、ダサくてシニカルな名前にしたいと考えていた吉井によって命名された。メンバー吉井和哉(よしい かずや、1966年10月8日 - )ボーカル担当。愛称・ロビン(LOVIN)東京都北区出身。菊地英昭(きくち ひであき、1964年12月7日 - )ギター担当。愛称・エマ(EMMA)東京都八王子市出身。廣瀬洋一(ひろせ よういち、1963年4月19日 - )ベース担当。愛称・ヒーセ(HEESEY)東京都足立区出身。菊地英二(きくち えいじ、1967年6月6日 - )ドラム担当。愛称・アニー(ANNIE)東京都八王子市出身。来歴1988年結成。当初は吉井がギターを担当していた。 1989年12月28日、上記4人のメンバーによる初のライヴ。吉井がヴォーカリストに転向、菊地英昭が加入。 1992年5月21日、コロムビアミュージックエンタテインメントより「Romantist Taste」でメジャーデビュー。 1996年、「楽園」をもって所属レコード会社をファンハウスに移籍。 1999年、ファンハウスがBMG JAPANに吸収合併されたため発売元を同社に移管。 2001年1月、東京ドームでの公演を最後に活動休止。 2004年7月7日、解散。 2004年12月26日、東京ドームで開催されたTHE EXHIBTION AND VIDEO FESTIVAL OF THE YELLOW MONKEY メカラウロコ・15の最終日にメンバーが再集結。「JAM」を演奏した。 概要バンド初期はデヴィッド・ボウイ、ミック・ロンソン、T.Rexなどを彷彿とさせるグラムロック色が強く、化粧をしたり吉井がライブで女装するなど服装も過激でヴィジュアル系のようなルックスだった。中期はUK・USの王道ロックを思わせるサウンドに。ファンハウス移籍後は独自のロックを追及していき、後期には朝本浩文、森俊之、笹路正徳などの外部プロデューサーを導入するなど新しい試みも見られた。 バンドの誕生日とも言える12月28日には、『メカラウロコ』と言う「昔のTHE YELLOW MONKEYに戻る」と言う趣旨の元、初期の楽曲をメインにしたライブを1996年 - 1999年(1997年を除く)にわたり3度行った。また、これらとは別に2001年の活動休止ライブと2004年の解散イベントも『メカラウロコ』と銘打たれたている。 1998年から1999年にかけて113本にも及ぶ『パンチドランカーツアー』を行う。ツアー前半終了の岡山市市民会館で吉井が「このツアーは失敗でした。」と発言するなどメンバーにとっては楽しいだけのツアーではなかったようだ。 NHK-FMの『ミュージックスクエア』において、「JAM」が1990年代を代表する曲第1位に選ばれるなど、同番組で非常に人気の高いバンドの1つだった。「JAM」は、暗い内容のため発売が見送られる予定であった。だがあるプロデューサーが「JAM」を強く推し発売された。「JAM」はじわじわと人気を獲得し、既にメジャーデビューしていたバンドの人気を不動にした名曲になった。なおこのプロデューサーはその後、他界している。 「JAM」のプロモーションビデオは吉井自らの監督で撮影された。次のシングル「SPARK」以降は「パール」と「プライマル。」を除く13曲のシングルで高橋栄樹が監督を務めた。高橋は、プロモーションビデオとしては異例ともいえる時間的余裕と自由な表現を許容され、プロモーションビデオだけでなく映像作品「BLUE FILM」、ライブビデオ「RED TAPE」などで独自の世界観を持った巧みな映像表現を製作し、吉井から「イエローモンキーの第5のメンバー」と言わしめた。高橋は「LOVE LOVE SHOW」「BURN」を監督した1997年に「SPACE SHOWER Music Video Awards」ベストディレクター賞を受賞している。 バンド解散の際、ごく一般的な「不仲」での解散を報道されることに、メンバー全員が嫌悪感を持った。吉井は「疲れもあるけど、メンバーがどうこうなんて言えない。バンドを解散させるのは辛いし、メンバーは最高だから、別れるのは寂しいし、心細いんだけど、とにかく解散は僕の我儘で、僕の責任」と語った。逆に、他のメンバーからは「吉井を追い込ませて、感情を吐き出させてやれなかった」「もっと力になってやりたかった」など、互いを擁護する発言が目立った。