あの紙ヒコーキ くもり空わって

すべてへ

『果てのない道』

19

13 rooms
1919(ジューク)は、日本の音楽グループ。2002年3月解散。岡平健治の持つ伸びやかな歌声と岩瀬敬吾の力強く優しい歌声との絶妙なハーモニーが魅力。先に売れていたゆずに続き現れたネオフォークデュオ。当時は10代、20代に絶大な人気を誇っていた。解散から数年経った現在も着うたやiTMSのランキングにランクインするなど絶大な人気を誇る。ちなみにあまり知られてないがネオフォークという言葉は彼等が作ったものである。メンバー岡平健治(おかひら けんじ):ボーカル、ギター、ハープ 現3B LAB.☆Sメンバー、広島県呉市出身。 岩瀬敬吾(いわせ けいご):ボーカル、ギター、現在はソロで活動中、広島県賀茂郡黒瀬町(現:東広島市)出身。バイオグラフィー岡平健治と岩瀬敬吾の二人によるヴィジュアル・プロデュースと作詞を担当するイラストレーターの326(ミツル)とのコラボレーション・ユニット『19』。326はシングル「すべてへ」以降、脱退。326が脱退した以降は曲などはフォークからバンド色に変わっていった。1999年には『あの紙ヒコーキ くもり空わって』、2000年には『水・陸・そら、無限大』でNHK紅白歌合戦にも出場している。ブレイクしたきっかけとしては、1999年春にTBSテレビの「1999・春」キャンペーン・ソングに『あの紙ヒコーキくもり空わって』が起用されたことにより、問い合わせが殺到し、多くの話題を集めた。また、その際にTBS系列のうたばんに注目の若手枠で出演を果たした事もブレイクしたきっかけの一つと言えるだろう。健治がフリーター時代にお世話になっていた中華飯店にインタビューし、メッセージを貰うという「うたばん」の中でも比較的善意の企画だったが、このVTRを見た健治が言葉を発せなくなるほど号泣し、予想以上の反応でMC2人を困惑させた。 その後の出演で、「毎日石橋さまと中居さまのいる方角を拝む」「収入の何割かを石橋さま・中居さまに振り込む」など無茶苦茶な誓約書にサインさせられていた(もちろんネタ)。この誓約書は19が解散するまでスタジオに飾られていた。2002年2月に解散を発表。以降、2人でのPR・マスコミ・ライヴ活動は一切なく、3月21日ラスト・シングル『蒲公英-たんぽぽ-』を発売し、3月31日に解散した。2005年10月19日には、携帯の着うたサイトでの人気曲投票の上位17曲を収録したベスト・アルバム『19~すべての人へ』が、リリースされた。タイトルは、同じく投票により決定した。二人の出会い二人の出会いは、高校3年生の時、とあるコンテストでのこと。健治は地元広島では数々の賞を受賞するなど有名であった。もともと健治に興味を持っていた敬吾は、そのコンテストで健治に話しかけ、自分のオリジナルソングを聞かせたとか。それがきっかけで一緒に弾き語りをするようになる。 「少年フレンド」の結成である。19結成高校卒業後、健治は就職。敬吾は音楽の道を目指して上京する。 二人の道はばらばらになったはずだったが、健治はわずか数週間で退職届も出さず仕事をやめ、上京。金がなかったという理由で東京には行かず、大阪に行く。また敬吾も、音楽の専門学校を中退する。 そして、健治もとうとう東京の1歩手前、神奈川の柿生に辿りつく。 下北沢などでライブ活動中に、イラストライター326と出会う。3人は意気投合し「19」結成へ。ようやくデビューをはたす。 セカンドシングル「あの紙ヒコーキ くもり空わって」がロングヒットとなり、1999年のNHK紅白歌合戦出場を果たす。そこでは、326が応援に登場し、19が歌うバックには326によるイラストが掲げられた。これが決定打となり、当時ゆずを中心に復興を遂げていたフォークは「ネオ・フォーク」と言う新ジャンルとして一般にも広く認知される運びとなる。そして、2000年にシドニーオリンピックの日本代表選手団公式応援ソングとして、『水・陸・そら、無限大』が起用されることになる。2002年3月、人気絶頂時に互いの音楽性を尊重するために解散。 余談だが、3rd Album「up to you」の岩瀬敬吾の歌「無意識とは」の歌詞は19の解散を意味しているように取れる。 また解散後、岩瀬敬吾としての作品「耳鳴りがした日」は自分の19時代を歌ったのでは?とファンのなかで密かに憶測されている。その後19の解散後、CDTVの再結成して欲しいアーティスト1位や青春ソング1位などにもなっており、解散しても19の人気は衰えない。オリコンなどで時折集計される再結成してほしいグループのランキングでは特に現在20代となっている世代に知れ渡っており、『特定の世代』に通じるミュージシャンであることが伺える。3B LAB.☆Sの岡平健治、ソロシンガー岩瀬敬吾としての活動を開始。現在までに二人とも19の頃ほどの大きなヒットには恵まれないものの、音楽ファンを確実に掴む楽曲製作を行い、高い評価を得ている。 二人とも自分たちの仕事の忙しさからなのか、それとも解散前後に噂された不仲のためなのかどうかはわからないが、一度も仕事はおろかプライベートですら岩瀬と岡平の顔合わせはなかった。 再会を果たしたのは2005年で、ベスト盤を制作するにあたって、二人が19の所属レコード会社であったビクターエンタテインメントで実に3年間もの間一度も会っていなかった。ただこれに関しての真偽は明確ではない。岡平が3B LAB.☆として初めてうたばんに出たときにSMAPの中居から 「敬吾とは連絡とってんの?」という質問に、「はい。マメに連絡とってますよ。」と話していた、という。着うたダウンロードの余りの多さや、再結成の要望が殺到していることに驚いていたということから、19再結成の噂もあるが、岩瀬はソロシンガーとして「アルバム製作を中心とした活動をする」、岡平は「3Bで10年は活動する」と公言していることから可能性は低いと思われる。「19~すべての人へ」が出た後の岡平自身の日記では「19は再結成するつもりはない。しばらくは3B LAB.☆一筋で行きたい。敬吾とは何年後かにどこかの小さいライブハウスでライブしたい」と語っていた。