柳ヶ瀬ブルース

美川憲一

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美川 憲一(みかわ けんいち、本名:百瀬 由一(ももせ よしかず)、1946年5月15日 - )は、長野県諏訪市出身の演歌歌手、タレント。血液型はA型。身長172.5cm。独身。エービープロモーション所属。芸名の「美川」は岐阜県を流れる木曽川・揖斐川・長良川の3つの美しい川にちなむ。美川自身は長野県出身で2歳から東京に住んでおり岐阜とは何の縁もなかったが、デビュー当時のプロダクションの担当者が岐阜出身だったことから岐阜に由来する芸名を付けられた。「川のように息が長く、美しい歌手であるように」という意味が込められている。1965年、「だけどだけどだけど」で歌手デビュー、当時は男装・中性的キャラクターであった。1966年、北海道出身で、柳ヶ瀬で流しをしていた宇佐英雄が作詞・作曲した「柳ヶ瀬ブルース」が120万枚を売り上げるヒット。1967年、「新潟ブルース」発売。売上枚数は多くなかったがカラオケで広く歌われるようになり(要出典)リクエストランキング1位を獲得した。1968年、「釧路の夜」がヒットし『第19回NHK紅白歌合戦』に初出場。1970年、「みれん町」「大阪の夜」「おんなの朝」と立て続けにヒット曲を出す。 「柳ヶ瀬ブルース」「新潟ブルース」「釧路の夜」とご当地ソングのヒットが続いていたが、「みれん町」のヒットにより盛り場をテーマにした曲なども発売されるようになり、この頃から曲調が変わっていく。なお「おんなの朝」は30万枚を売り上げるヒット曲となったが、当時のNHKでは「歌詞の内容が過激すぎる」ということで歌唱禁止とされた。「柳ヶ瀬ブルース」で第3回日本有線放送大賞特別賞を受賞。1971年、「おんなの朝」で第4回日本有線放送大賞スター賞・第4回日本作詞大賞大賞を受賞。「お金をちょうだい」が発売される。当時としては奇抜なタイトルで話題となったが、当時のNHKでは歌唱禁止とされた。1972年、「さそり座の女」がヒットし、当時の星占いブームのきっかけとなった。「さそり座の女」以降は目立ったヒット曲がなく、1974年の『第25回NHK紅白歌合戦』まで7年連続で紅白に出演していたが、翌1975年の『第25回NHK紅白歌合戦』で落選した。1977年に「駅」が発売された。ドラマのエンディングに使用されたこともあり発売後は有線リクエストでも上位にランキングされ美川にとって久々のヒット曲になるかと言われたが、この年の10月に大麻取締法違反で逮捕されヒットに結びつくことはなかった。1985年に大麻取締法違反で2度目の逮捕。判決は懲役1年6か月、執行猶予3年。大麻事件以降はテレビの出演回数も減り、スナックでの営業や地方の温泉などでの公演が続いた。一時芸名を「美川けん一」に変更したが、事態が好転することはなかった。1980年代終盤、ものまねブームのさなか、ものまねタレントの第一人者であるコロッケによる美川のマネがうけ、1989年に放送されたものまね番組でコロッケと初めて競演をした。この時の出演が大きな反響を呼び美川の人気が復活するきっかけとなった。1990年にちあきなおみと競演した金鳥のCMが話題となり、その後の美川ブームへと続いた。1991年の第42回NHK紅白歌合戦にも、17年ぶりのカムバック出場を果たし、コロッケとのデュエットで「さそり座の女」を披露。ブーム以降も「芸能界のご意見番」などとしてワイドショーやバラエティ番組にしばしば登場し、タレントとしての地位を確保。彼の歌声はもちろん、毒舌やトーク聞きたさにコンサートやディナーショーにも、中高年女性を中心とした集客が見込めるタレントとなった。二度の逮捕で業界を干されていた自身の再起の機会を作ったコロッケに対しては強い恩義を抱いており、現在も大変仲が良く、度々全国でジョイントコンサートを開催したこともある。美川本人も「どん底から自分を復活させてくれたコロッケには感謝している」と度々発言している。コロッケへステージ衣装をプレゼントしたことがある。再ブレイク以降は「オネエキャラ・セレブキャラ」として活躍。ちあきなおみと共演した金鳥のCMでの「もっと端っこ歩きなさいよ」や、美川がバラエティ番組でたびたび発する「おだまり」が流行語になる。またNHK紅白歌合戦には、復帰出演の1991年から2009年まで19年連続出場(通算では26回出場)し、小林幸子との派手な衣装対決で毎年話題を集めている。小林とは歌手として、衣装対決でもライバル関係ではあるが45年以上前の歌手デビュー前後には古賀政男の元で小林と一緒にレッスン指導を受けていたことから、当時から現在まで公私共に親交が深くてお互いの低迷時の苦労を全て知り尽くしている仲でもあり、2010年の紅白歌合戦落選直後には小林からすぐに電話がかかってきてとても励まされたという。過去にはデュエットCDを出したこともある。交友関係は幅広く神田うの、飯島愛、うつみ宮土理、加賀まりこ、研ナオコ、浅丘ルリ子、佐久間良子など、女性タレント・女優が多い。男性タレントでは、加藤晴彦、伊藤英明、永井大、織田裕二、福山雅治などと交友。またジャニーズタレントとも交流がある。美空ひばりからも公私共に可愛がられていたという。デヴィ・スカルノとは『愛する二人別れる二人』の本番中になぜか喧嘩となり、なぜか絶交し、なぜか敵対関係となっていたが、やらせ問題で番組が打ち切りになった後は2000年2月1日放送の『火・曜・特・番!! 美川憲一とデヴィ夫人のケンカはダメよ』や2005年7月13日放送の『愛のエプロン』で共演をし、一緒に毛皮のファッションショーを見物したり、その後の囲み会見も行っているなど、関係は修復している模様である。またデヴィ夫人は、美川の借金が原因で起こった裁判の口頭弁論に、出席できなかった美川の代わりに証言台に立ったこともある。近年では、桜塚やっくん、はるな愛との共演もしばしば見受けられる。2005年の紅白でのみのもんたの司会ぶりを「喋り過ぎだった」と批判した。シャンソンに非常に力を入れており、1999年から毎年シャンソンコンサートを開催している。また、デビュー35周年記念、40周年記念、45周年記念でそれぞれ シャンソンアルバムをリリースしている。デビュー当時から親交があった淡谷のり子から「憲ちゃんの声はこぶしがなく一本調子だからシャンソンに合っている」と勧められた事がきっかけで、また美川自身もシャンソンが好きだったこともあり、美川が20代後半の頃からレコーディングやコンサートで徐々に歌われるようになっていった。1991年(平成3年)に復帰した紅白歌合戦へは、2009年(平成21年)まで19年連続(合計26回)で出場していたが、2010年(平成22年)、2011年(平成23年)は落選したことが発表された。