蜘蛛の糸

香菜、頭をよくしてあげよう

日本印度化計画

イワンのばか

サンフランシスコ

小さな恋のメロディ

少女の王国

踊るダメ人間

釈迦

筋肉少女帯

13 rooms
筋肉少女帯(きんにくしょうじょたい)は、1980年代後半から1990年代後半にかけて活躍し、2006年に活動を本格再開した日本のロックバンド。通称は「筋少」(きんしょう)で、アルファベットでは「King-Show」(初期は「KIN-SHOW」)と記す。 結成~インディーズ期 1979年に当時中学生だった大槻ケンヂと内田雄一郎が組んだバンド「ザ・ドテチンズ」(別名ドンズ。当時の大槻のあだ名より命名)が始まり。大槻は健康青竹踏みを打ち鳴らし、内田はエレクトーンを掻き鳴らした。 ドンズが解散した後の1982年2月、二人は高校進学を期に再びバンド「筋肉少年少女隊」を結成。大槻は「JAGATARA」のようなファンクバンドを志向していたものの、練習スタジオでファンクが上手く説明できず、結局「ディープパープル」の様な曲調になったそうである。同4月6日のライブハウス新宿JAM「伝染病解散ライブ」にてインディーズデビュー。その後バンド名を「筋肉少女帯」に改める。とはいえ、まだまだ1984年頃のライブでは大槻がうどん粉で顔面白塗りの上、裸体に包帯を幾重にも巻きつけて歌唱するなど、「当時は学園祭バンドみたいなノリで、完全にキワモノ」(大槻談)であった。 この頃、後に第22期筋肉少女帯メンバーとなる5人がそれぞれのバンド(大槻・内田は筋少、本城は筋少及び有頂天やエッグレイヤー、太田はYTJ、橘高はSLEAZY LUSTER)でYAMAHAのコンテストに出場。たびたび顔を合わせる旧知の仲だった。筋少はパフォーマンス賞を受賞。橘高、太田はそれぞれベストギタリスト賞、ベストドラマー賞を取るなど、対照的な結果を残している。 1986年3月に三柴江戸蔵が加入した第13期以降、音楽的にも高い実力と評価を得ていくことになる。 1987年、ナゴムレコードより発売の自主制作EP『高木ブー伝説』が話題を呼ぶ。冗談画報、11PMなどに出演。その際演奏した高木ブー伝説、ドリフターといった楽曲の歌詞が問題となったりもした。『高木ブー伝説』は結局自主回収という形で販売中止となる。 メジャーデビュー~バンドブームの盛衰 様々なメンバーが加入と脱退を繰り返す中で活動を続け、1988年6月、トイズファクトリーよりアルバム『仏陀L』・シングル『釈迦』でメジャーデビュー(第18期メンバー)。しかしその後もメンバーが定着することはなく、半年後に発売された2ndアルバムは21期メンバーで録音された。 1989年2月の三柴脱退を受け、橘高文彦の加入・本城聡章の復帰が「大槻ケンヂのオールナイトニッポン」にて発表される(第22期)。筋少のオリジナル音源への参加に先駆け、「オールナイトニッポン」の企画から派生した「まんが道」(大槻と内田による変名ユニット)の『ボヨヨンロック』において非公式ながら初のレコーディング。その後さらに同メンバーで録音された3rdアルバム以降ついにメンバーが定着し、以後十年間メンバー交代が行われることはなかった。 アルバム収録曲『日本印度化計画』が話題となり、続くシングル『元祖高木ブー伝説』が一躍ヒット。大槻がオールナイトニッポンのパーソナリティを務めたことも相まって、一躍有名バンドへとのし上がっていく。「筋肉少女帯の深夜改造計画」という看板番組まで持っていた。一方で、『ボヨヨンロック』、『日本印度化計画』、『元祖高木ブー伝説』と笑いの側面の強い曲が立て続けにヒットした事もあり、はからずも世間にはコミックバンドという認知が俄かに定着しつつあった。大槻自身、この三作をまとめて「ボヨヨン・カレー・ブー」=「B・C・B」と呼び、たびたび自虐的に当時の状況をネタにしている。 1990年2月7日には単独では初となる武道館LIVE。以後1994年まで通算4度、単独での武道館LIVEを敢行する。 1992年発売のベストアルバム『筋少の大車輪』には、かつてのメンバーが一堂に集結し、新たに録音された「大釈迦」が収録された。 活動凍結~それぞれの道へ 22期メンバーでの活動に行き詰まり感を覚えていた大槻が、内田及び、三柴らかつてのメンバーと期間限定で「80年代の筋肉少女帯」を結成。LIVEツアーも行う(後にインディーズよりビデオ発売)。 バンドブーム衰退後も独自のスタンスを保ちメジャーシーンで活躍しつづけたが、1998年7月の渋谷公会堂ライブを最後に太田が脱退。更に1999年5月には大槻がバンドメンバーの交代を示唆した事により橘高が脱退を表明。この事態がファンの反発を招き、インターネット上でダイレクトに批判を受けたリーダーの大槻が翌6月に脱退を表明した。 内田雄一郎と本城聡章の2人のみとなった筋肉少女帯は事実上解散状態となる。しかし2人は筋肉少女帯の名を守りつづけることを決意し、「解散」ではなくバンドとしての活動「凍結」を宣言した。 その後、大槻は文筆活動と併行して「特撮」を結成。橘高は脱退と前後する形で結成していた「X.Y.Z.→A」に専念。太田は相川七瀬らのサポートの傍らドラム教室を開催。内田と本城はプロデュース活動の他、「筋肉少女帯」(KING-SHOW)としてサントラ製作やライブアルバム監修、イベント主宰などを行っていった。 活動再開への布石 活動休止前後にはメンバー間で行き違いもあり、更に盟友関係と言っても良かった大槻と内田は、その後「特撮」内で対立して内田が脱退するなど一時絶縁に近い状態だった。しかし二人との交友があった元アンジーの水戸華之介が大槻と行ったLIVEに内田を参加させて仲直りの場を設けたり(大槻は「サプライズだった」と語っているが、内田は後述するように水戸のバンドのメンバーである)、内田と本城の主催イベントに橘高が参加して「一夜限りの復帰」と銘打ってセッションを実施、また大槻と橘高の所属バンド同士が競演するなどして徐々に修復していった。共演の際に筋肉少女帯の曲が演奏されることもあり、大槻と内田に至っては「仲直り」自体をイベントのネタとして使用するまでになった。 2006年にはかつて大槻がケラ、内田と結成していたユニット空手バカボンが突如復活しライブを行った。さらに大槻と橘高が三柴らのサポートを受けて「大槻ケンヂと橘高文彦」と称するコンビを組み、筋少ファンを公言する滝本竜彦原作・大岩ケンヂ作画のテレビアニメ『N・H・Kにようこそ!』に楽曲を提供。大槻、橘高参加時の往年の「90年代の筋少」サウンドを髣髴とさせる楽曲となった(シングル盤には筋少時代の楽曲「踊るダメ人間」のセルフカヴァーも収録されている)。 同年4月から7月にかけて『週刊アスキー』誌上において大槻が『筋肉少女帯物語』第1部を連載。大槻本人が明記しているようにフィクションのキャラクターも登場する「小説」なのだが、当時のメンバーらの許可の元に、バンドブームに巻き込まれ、急激に人気バンドになってしまった彼らを取り巻いていた状況なども語られている。 そして小説第1部の最終回掲載直前の7月22日。恵比寿で行われた「大槻ケンヂと橘高文彦」のライブに、サプライズゲストとして内田と本城が登場。大槻と橘高の筋肉少女帯再加入と、4人で同年12月28日に筋肉少女帯のライブを行うことが発表され、凍結状態であったバンドは8年ぶりに復活を果たした(小説第1部のラストでも、大槻が復活を宣言)。 2007年9月にはおよそ10年ぶりのオリジナルアルバムとなる「新人」を発売。 2008年9月21日に14年ぶり、単独では5度目となる武道館公演を行った。