友川かずき
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一切合財世も末だ
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友川かずき
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友川 かずき(ともかわ かずき、本名:及位 典司(のぞき てんじ)、1950年2月16日 - )歌手、競輪評論家、画家。歌手としての活動の根源は、岡林信康の影響によるもの。2004年に友川カズキと表記を改めている。農家の次男として生まれる。中学校時代は歌手・舟木一夫にあこがれる野球少年。勉強嫌いで文学にも無縁だったが、ある日、図書館で中原中也詩集の「骨」を目にして衝撃を受け、自分でも詩作を始める。どことなく太宰の面影を感じさせる彼は文学的指向が強く、中原中也の詩に曲をつけたアルバムも発表している。能代工業高校建築科に進学。教科書は開かず、文学書の乱読とバスケットの練習に明け暮れた。太宰治と小林秀雄に激しくひかれた。高校卒業後、日本橋の婦人服卸問屋に就職したが、六ヶ月で退社。秋田訛りがひどく気になり、トイレに隠れて「いらしゃいませ」「ありがとうございました」を練習した。自意識過剰の男が接客に向くはずもなかった。その後、友川かずきと名前を偽って練馬の飯場にもぐり込む。及位という本名を笑われるつらさからだ。現在の芸名、ペンネームは、この時初めて使われた。以後、新聞配達、労務者、旋盤工、喫茶店のボーイ、クラブ歌手と、転々とする。上京後、職を転々とするかたわら、URCレコードでのアルバイトを通し、あがた森魚と知り合い、中津川フォーク・ジャンボリーに参加。その後、故郷に一度帰るも再び上京、そこで恩人・宇崎竜童と出会う。彼の尽力によりシングル「上京の状況」や「生きてるって言ってみろ/人生劇場裏通り」をリリース、これを機に頭脳警察や寺山修二とも親交を深めた。二十歳のころ、行きつけの赤提灯で岡林信康の歌を聴いた。「山谷ブルース」「チューリップのアップリケ」「手紙」..何かがグサリと胸に突き刺さって涙が出て止まらなかった。友人からギターを譲り受け、それまで作詞した詩作に曲をつけ、歌うようになった。 1974年3月「上京の状況」でデビュー。続いて「生きているって言ってみろ」を出すが、ニューミュージック全盛の時代、全く、といっていいほど売れなかった。高校時代や一時故郷にいた頃のエピソードは、秋田県立能代工業高等学校バスケットボール部を全国大会で33回優勝させ、同部を全国屈指の強豪校にした、能代工業時代の恩師である加藤廣志著の『高さへの挑戦』に詳しく描かれている。加藤廣志は友川かずきを自分以上のバスケバカで、環境によっては最大のライバル指導者になっていただろうと彼を評している。実際、彼が同校のバスケットボール部のマネージャーだった時、有望選手を独自に育てている。また、故郷にいた時に中学校時代の小野秀二をコーチとして鍛えたのも彼だった。上京した時に競輪を見て以来(川崎競輪場だと言われている)、競輪観戦を趣味としている。現在では趣味を越えてTV中継のゲストとして呼ばれる事も多く、出演したTV中継では名(迷?)言を残す事があり、競輪ファンの中では人気がある。中上健次は友人であり、友川の絵を高く評価していた。名言 * 「僕が欲しいのは5万、10万じゃなくて50万、100万が欲しいんです。」 * 「今日は預けてるお金を引き出しに参りました」 * 「ギャンブラーには反省している時間はありません」