Dead by April
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Losing You
Crying Over You
Memory
What Can I Say
I Can't Breathe
Warrior
Promise Me
Within My Heart
Trapped
Mystery
Last Goodbye
Dreaming
Our Worlds Collide
Breaking Point
As A Butterfly
Calling
Playing With Fire
Memory - Orchestral Version
Numb
PERFECT THE WAY YOU ARE
Sorry For Everything
Beautiful Nightmare
Carry Me
Angels Of Clarity
My Saviour
In My Arms
Crossroads
My Tomorrow
Can You See The Red
Stronger
Falling Behind
More Than Yesterday
Incomparable
A Promise
Freeze Frame
Real & True
My Heart Is Crushable
When You Wake Up
Abnormal
Two Faced
You Should Know
Let The World Know
Too Late
Peace Of Mind
Same Star
Dead by April
13 rooms
詳細
=バンド:バイオバイオグラフィー=ジミー:Jimmy Strimell ( Vo )ポンタス:Pontus Hjelm ( G & Vo )ヨハン:Johan Olsson ( G )マーカス:Marcus Wesslen ( B )アレキザンダー:Alexander Svenningson ( Ds )●しかし我々がもっとも衝撃を受けるのは彼らの曲の力強さだ。彼らのメタルはハード・ロックとはこうあるべきだという一般的な概念や先入観にとらわれることを拒んでいる。妥協の拒絶だ。彼らのリフにはもっともヘビーだと称するバンドをも恥らせる重さが存在する。そしてジミーの怒りと不安に駆られた唸り声は電気のこぎりが出す音よりも鋭く耳をつんざくのだ。メロディは最近我々が耳にする多くの音楽よりも格段に幅広く、力強く、そして美しい。1つの声に多彩なスペクトルが存在するのだ。この結果、すべてのルールを無視した音楽が生まれ、人々に無理やり認めさせるような多くの近代文化よりも奥深くを触れてくるのだ。●Dead by Aprilがその形を見せ始めたのは2007年の初めだ。当時ヨーテボリのメタル・バンド"ナイトレイジ"のヴォーカルだったジミー・ストゥリメルは自らが作曲してきたメロディの新しい吐き出し先の必要性と、自分がこのバンドに合っていないということを感じていた。そしてポンタス・イェルムの作品を聞き、彼とのコラボレーションの可能性を見出したのだ。こうしてDead by Aprilは誕生した。最初の作品"Lost"と"Stronger"がバンドの新しいMySpaceサイトにアップされ、連日何百人もの人間に聞かれるようになるまで2週間もかからなかった。ジミーはライブを希望したが、ポンタスは反対。ポンタスは極度の上がり症で、ライブにまったく興味をもっていなかったのだ。しかしバンドへの関心が高まるにつれ、彼らをライブで見たいという要望も増していった。友人や他のバンド仲間の間を探り、リハーサル・ルームを使い古す頃には、最初のショーを開催する準備が整った。当初はプロジェクトとして始まったものが間違いなくバンドへと成長していったのだ。そして力強さをも兼ね備えたバンドだった。●ポンタスとジミーはその間も曲を作っていった。絶対にヘビー・メタルの規則や領域から離れないという基本的な決まりごとは、現在も変わっていない。新曲がMySpaceにアップされ続け、開催するショーも増えていくと彼らのサイトはパンク寸前になった。●バンドが生まれたその初日から、彼らは多くの時間を大量に届くメールやメッセージやコメントへの返事に費やした。非常に大変な仕事だが、彼らにとっては自然なことで、当然だと思いながらやっていた。●「僕たちのサイトに来てくれて、曲を聞き、コメントしてくれた人たちとダイレクトな関係を持ちたい。サポートしてくれるみんなに、この応援がどれほど僕らにとって大切なことであるかを知らせるのはとても大事なことだと思う。僕たちが本当にとっても感謝していることを知ってもらいたい」とポンタスは言う。●ファンとの密接な関係を維持し続けるというこだわりが、口コミであっという間に広がった彼らの人気の要因のひとつとも言えるだろう。数ヵ月後にはアジアや日本でもファン・サイトが立ち上がり、あっという間にMySpaceの"未契約バンド"チャートのトップに上り詰めたのだった。●彼らに注目しているのはファンばかりではなかった。音楽業界でも話題になり始めたのだ。様々なパブリッシャーやエージェント、マネージャーやレコード・レーベルが彼らを誘い始めるまで時間はかからなかった。バンドはこの状況を冷静に判断し、他人の意見に従うより、自分たちの直感を信じて動くことにする。彼らは丁寧に全てに感謝を述べながらも辞退して、自分たちの望み通りに活動をさせてくれるパブリッシャーとエージェントと契約を結んだのだ。●その後バンドはイル・ニーノやソニック・シンディケイトのオープニング・アクトを務め、2008年の夏には複数のフェスティバルへ招待されるようになっていた。バンドにとってもっとも重要な起点になったのはスウェーデン最大のフェスティバルで"Stora Dansbane"をやったときだ。サウンドチェックの時点で会場はすでに満員、実際にショーが始まったときの来場者数は記録として残っている。●その頃バンドは真剣に興味を示してくれていた複数のレーベルとの最終交渉を終え、最後はユニバーサル・ミュージックと契約を締結したのだ。●2008年秋は作曲に励むと同時に、メタル系雑誌"Close Up"主催のトリプル・イベントではダーク・トランキュリティとエンゲルと共に北欧をまわった。プロデューサーとのデビュー・アルバム制作も持ち上がっていた。何人かのメタル系プロデューサーと顔を合わせた結果、バンドが選んだのはヘンリク・エデンヘドだった。履歴書にメタル系の経験があまり記載されていなかったことに、周囲からは疑問の声も上がった。(彼が仕事をしたのはジョーダン・スパークス、レディ・ソヴリン、ロビン、テディベアーズだ)しかしここでも直感を信じたバンドの希望通りに物事は決まった。12月にストックホルムのキングサイド・スタジオで彼らはドラム・レコーディングを開始した。●「何人かのプロデューサーと話しはしたよ」ヨハンは言う。「でもその多くはいわゆる"クラシック"なメタル系プロデューサーだった。ヘンリクは違うジャンルで仕事をしてきたけれど、彼に会った瞬間に運命を感じた。彼は僕らが達成しようとしていることを理解して、僕らの音楽に対して彼なりの角度でアプローチしてくれたんだ」●クリスマスの休暇後、バンドはレコーディングを再開する。今回はストックホルム南部のコスモス・スタジオだ。そして数日の短い休暇をとると、彼らはBandit Radio アワードで2曲の演奏し、"新人賞"を受賞、ロックビョーネンではMySpace賞にノミネートされ、スウェーデン・メタル・アワードでは"新人賞"を受賞した。これらすべて1枚も作品を出さずして起きたことなのだ。すべてライブとMySpace上での活動によるものである。●彼らのMySpaceページで曲は既に1万回以上再生され、世界各国1万5千人近い"お友達"が彼らのデビュー・アルバムを待っている。今では受け取るすべてのメールや質問に返事を書くことは不可能になってしまったが、彼らは代わりにブログや新着情報を頻繁にアップデートすることでファンとの深い関わりを維持している。●「新しいアルバムを出すことになり、僕らのことを最初から応援し、サポートしてくれたファンたちが変わらずに1番大切だとわかってもらうことが今までになく大事なことになっているんだ」ヨハンは話す。「もちろん成功は望んでいるけれど、バンドが生まれたその日から成長を見守ってくれたファンなしに、僕たちはここまでやって来られなかった」●ファースト・シングルの"Losing You"はすでにライブの人気曲になっている。そしてDead by Aprilの入門編としては誰もが最適な曲だと認める作品だ。その後、メンバーチェンジを経て2011年に2ndアルバム「Incomparable」をリリース。母国スウェーデンではチャート2位という大ヒットになる。現在のラインナップは、ジミー:Jimmy Strimell ( Vo )ザンドロ:Zandro Santiago (clean Vo)ポンタス:Pontus Hjelm ( G & Vo )ジョエル:Joel Nilsson(G)マーカス:Marcus Wesslen ( B )ヨナス:Jonas Ekdahl(Dr)ポンタス・ジョエル・ヨナスの扱いはツアー・セッションメンバーとなっている。