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石川秀美

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石川 秀美(いしかわ ひでみ、本名:薬丸 秀美〈やくまる ひでみ、旧姓:石川〉、1966年7月13日 - ) は、1980年代に活動した女性歌手。愛知県瀬戸市出身。明治大学付属中野高校定時制卒業。現役時代の所属事務所は芸映プロダクション、レコード会社はRVC(現BMG JAPAN)。1990年、タレントの薬丸裕英との結婚を機に芸能界を引退した。1966年7月13日、千葉県木更津市で自衛官の父親の次女として誕生。1976年、小学校4年生の時に父親が交通事故で急逝し、以後、母親の手で育てられる。中学時代はバスケットボール部に所属し、県大会で活躍する。中学3年生だった1981年の夏、芸映プロが主催した「ヒデキ(西城秀樹)の弟・妹募集オーディション」に応募。12月13日に九段会館で開催された決戦大会で、応募総数55,460名の中から選ばれる。選考に当たって他の審査員は後の森下恵理を推したが、西城秀樹が石川を強く推し、その意向に沿う形で決定したという。その後名古屋と東京を往復しながら歌のレッスンを受け、翌1982年3月、中学卒業と同時に上京する。1982年4月21日、『妖精時代』でデビュー。健康的で均整の取れたスタイルと明るさが人気を集め、各音楽祭で新人賞を獲得する。以降、同期デビューの中森明菜、小泉今日子、シブがき隊、堀ちえみ、早見優、松本伊代らと共に「花の82年組」と呼ばれ、1980年代の歌番組の常連として活躍した。特にその脚線美は注目を集め、デビューからしばらくは、衣装は超ミニスカートが多かった。本人は「(人前やイベントで、相手の)視線は『下』ですねぇ!」などと述べているが、自分のセールスポイントとして前向きに捉えていた様子が伺われる。オーディション合格まで専門的な音楽教育の機会がほとんど無かったこともあり、当初の歌は健康的なイメージを前面に立てたアイドルポップスが中心だったが、抜群の運動神経とリズム感でデビュー後2年足らずの間に非常に洗練された歌唱スタイルを整え、1985年頃を境にロック系統の音楽に傾倒してゆく。1980年代後半はセールス的には苦戦したものの、充実したライブコンサートと共に内容の濃いオリジナルアルバムを発表していった。またこの時期はドラマに出演することもあったが、芸能活動の中心が歌から大きく離れることはなかった。音楽概要シングルは1982年から1989年迄の間に30タイトルが発売され、オリコンチャートでは内13枚が連続でベスト10入りした。最高位は『もっと接近しましょ』の週間売上4位。 アルバムは1982年から1989年迄の間にオリジナル盤が13枚、ライブ盤が3枚が発売され、オリコンチャートでは内3枚がベスト10入りした。最高位は『16・祭』の週間売上4位。ベスト盤は1984~1994年に計5枚、2004年にBOXとゴールデンベストがそれぞれ発売されている。 TBSのザ・ベストテンには1983年から1985年までの3年間に、計16週にわたり8曲がチャートインした。最高位は『ミステリーウーマン』『愛の呪文』の7位。 NHK紅白歌合戦には1985年(第36回)に1度出場した。出場曲は「愛の呪文」。 『もっと接近しましょ』はシーラ・Eの『グラマラス・ライフ』に酷似していることが指摘された。当時、『グラマラス・ライフ』のカバーと間違えて買った人もいたという。 『もっと接近しましょ』はMSXおよびファミリーコンピュータのゲーム「ぺんぎんくんWARS」のBGMとしても採用されている。