浅香唯

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浅香 唯(あさか ゆい、本名:西川 亜紀(旧姓:川崎)、1969年12月4日 - )は、宮崎県宮崎市出身の歌手、タレント。A型。宮崎大学教育学部附属中学校、明治大学付属中野高等学校夜間部卒業。1984年、少女コミック主催の「ザ・スカウトオーディション'84」でグランプリ・浅香唯賞を受賞。これにより、芸名が「浅香唯」となる。自身は芸能界には全く興味がなかったが、優勝者に贈られる副賞“赤いステレオ”欲しさでオーディションに応募する。審査員だった前述の漫画の作者が「“浅香唯”はこの子しかいない」と、浅香を一目見た瞬間から決めていたことによるグランプリであった。浅香はステレオとグアム旅行を手にするという目的を果たし、これで終わるはずだったが、数々の芸能プロダクションから次々とスカウトの電話が来る。芸能界入りすることに関心のない浅香は全て断るが、一社だけ熱心なプロダクションがあり、家族の反対を押し切って、1985年3月、中学卒業と同時に上京する。上京した翌日からTBSの生放送番組『EXPOスクランブル』にレギュラー・アシスタントとして出演。同年6月21日、シングル「夏少女」で歌手デビュー。キャッチフレーズは“フェニックスから来た少女”。しかし、レコードは鳴かず飛ばず、ドラマのオーディションを受けても宮崎訛りが災いして受からない、地方にキャンペーンに行っても客が集まらない、という不遇時代が約1年半続く。1986年10月、フジテレビ系連続ドラマ『スケバン刑事III 少女忍法帖伝奇』の主役(三代目麻宮サキ)に抜擢されたことで注目を浴び、ようやくブレイクする。それまで災いしていた宮崎訛りが功を奏し、オーディションの審査員に「九州訛りがいい」と評され、ドラマの台本も九州弁に書き直された。1987年1月発売の「STAR」が同ドラマの主題歌に起用され、オリコン9位にランクイン。以降、TBS系『ザ・ベストテン』、日本テレビ系『歌のトップテン』、フジテレビ系『夜のヒットスタジオ』、テレビ朝日系『ミュージックステーション』等、音楽番組の常連となる。同年9月発売の「虹のDreamer」で、初のオリコンチャート1位を獲得。『スケバン刑事III』は当初半年間の放映予定だったが、高視聴率につき更に半年延長される。1988年には、映画『スケバン刑事 風間三姉妹の逆襲』に主演。風間三姉妹(長女: 大西結花、次女: 中村由真、三女: 浅香唯)として、シングル「Remember」を発売しオリコン1位を獲得、またコンサート活動も行う。ドラマ、映画、キャンペーン、コンサートと約1年半にわたる『スケバン刑事』関連の仕事が終了した後、1988年4月には、カネボウ化粧品のCMイメージ・キャラクターに選ばれ、そのキャンペーン・ソング「C-Girl」が大ヒット。オリコンでは2週連続(通算3週)1位、『ザ・ベストテン』では初の1位を獲得するなど本格的な大ブレイクを果たし、中山美穂、工藤静香、南野陽子と共に「アイドル四天王」と称される。1989年3月15日放送の『夜のヒットスタジオ』に4人揃って出演した際には、この4人が揃うことは珍しいということで、記念のテレホンカードが作られ、視聴者にプレゼントされた。1988年の浅香は「日本で一番忙しいアイドル」と言われる程人気がピークに達し、ファンクラブ会員数は2万8千人に及んだ。出すレコードは全てヒットし、ドラマ、映画、そしてCMにも多数出演する。1989年、1月発売の「TRUE LOVE」で自身4作目のオリコンチャート1位を獲得。4月には2作目の主演映画『YAWARA!』が公開される。映画のキャンペーンと春のコンサートツアーに駆け巡っていたさなか、階段で足のじん帯を損傷してしまう。途中コンサートは2本延期されるが、程なくして復帰。夏のコンサートツアー『YUI ASAKA SUMMER TOUR '89 ROCK'N ROLL CIRCUS』は24ヶ所48公演という、浅香にとって最も公演数の多いツアーとなったが、初日(7月29日)、東京厚生年金会館での公演中、風邪による高熱で倒れてしまい、6曲歌ったところでコンサートは中断されるも、翌日の同会場でのコンサートは予定通り行われた。1989年締めくくりのコンサートとして、11月4日にはよみうりランドEASTにて『YUI DREAM POWER in EAST '89』を開催し5千人を動員。着実にトップアイドルとしての地位を築く中、1988年のコンサートでバックバンドの一員だったドラマーの西川貴博との交際が発覚し、写真週刊誌に掲載されてしまう。事務所は即座に釈明会見を手配するが、浅香は「お付き合いしています」と告白してしまい、当時のアイドルとしては異例の交際宣言となった。西川とはその後も交際が続き、2002年に結婚した。1990年、女優活動を休止し音楽活動に専念すると発表。「ロックをやりたい」という発言から、「脱アイドル宣言」と言われたが、本人は“脱アイドル”を宣言したつもりではなく、また「ロックをやりたい」という発言は、表現方法が分からずそう発言しただけであり、メッセージ性のある歌を歌いたいという意味(それが浅香にとっては“ロック”という表現に繋がった)だったことを後に雑誌のインタビューで語っている。コンサートもそれまでとは異なり、セットリストはアルバム曲中心でヒット・シングルはわずか、また衣装替えもほとんど無しというスタイルになる。10月発売の「Self Control」はシングル作品で初の本人作詞となった。歌唱法を今までの力強い歌い方からウィスパー唱法に変更し、以降は楽曲もアーティストを意識したものが多くなり、主にシングルよりもアルバム制作に力を入れ、企画段階から浅香自身が携わるようになると同時にテレビ出演は極端に減り、CD制作やライブハウスでの音楽活動が中心になる。1991年6月、フジテレビ系オムニバス・ドラマ『世にも奇妙な物語』(「ベビーシッター」)に出演、『金太十番勝負!』(1988年10月 - 12月、フジテレビ系にて放送)以来3年振りのドラマ出演となった。また、10月放送開始のTBS系連続ドラマ『ADブギ』にも出演し、アイドル時代のイメージから一転、あまり笑顔を見せないクールな女性を演じた。1992年8月に発売された13枚目のオリジナルアルバム『joker』はシングル曲を収録せず、また浅香の念願だったアルバム全楽曲を女性作家陣のみで作った作品になり、一作ごとに音楽性を追求していた。1993年2月一杯で、8年間所属した事務所・六本木オフィス、そして所属レコード会社・マイカルハミングバードとの契約が切れるのを期に、契約延長はせずに円満退社した。「自分を見つめ直し、音楽活動の幅を広げるための勉強をしたい」という理由で、同年3月14日のクラブチッタ川崎でのライブを最後に無期限休業に入ることをファンクラブ会報にて発表。突然の休業宣言となり、前触れもなしにその号でファンクラブは解散する。引退ではなく、あくまでも休業であることを強調していたが、後日「浅香唯引退」と報じる記事が新聞や雑誌に掲載され、「引退はしません」と釈明会見を行った。1990年から3年間続けていたレギュラー番組TOKYO-FM『スーパーFMマガジン 浅香唯のNORU SORU』は局側の強い希望もあり当初は休業後も続ける意向だったが、完全休業をしたいという希望から1993年4月1日の放送をもって降板し、完全休業に入る。所属事務所とレコード会社の契約を延長せずに退社した上での休業だったことで、前述の引退否定会見の後も、引き続き各社は「引退」の記事を掲載し続け、事務所とのトラブルで休業に入らざるを得なかったという旨の記事が多く出たが、実際には、1990年頃から浅香は事務所に「(あまりにも忙しすぎることから)休業をしたい」という意向を伝えていたことを後に明らかにしており、「そもそも事務所とのトラブルなどなかった」と発言している。休業から3ヶ月程経った頃から、今度は「浅香唯、ヌード写真集出版」という記事が乱れ飛ぶようになる。アラーキー(荒木経惟)によってヌードは撮影済みであるとか、アラーキーゆえに内容は過激で、写真集とビデオで発売されることがタイトルと共に発売元から全国書店に情報が流れたとか、根拠のない噂が絶えず出回っていた。そんな中、1994年2月に本名の「川崎亜紀」として、写真集『FAKE LOVE』(KKベストセラーズ)を出版した。ヌード写真は1枚も掲載されていない普通の写真集だったが、初版の3万部が即完売する。すると今度は「前所属事務所から音事協に訴えられ、芸能界追放」という報道をされてしまう。内容としては、前所属事務所との間で、「休業後1年間は仕事をしない」「『浅香唯』という芸名は出版社と事務所が話し合いの元、許可を受けて使っていた名前であることから、事務所を辞めた後はその芸名を使用しない」という約束をしたにもかかわらず、休業後 1年と経たずに写真集を出版したこと、また写真集の名義が「川崎亜紀(浅香唯)」となっているため、芸名を使用したことが発端となり、前所属事務所が音事協に規約違反であることを訴えた、というものであった。本人は事務所とトラブルがあったことは否定したものの、芸名問題に関しては「私が芸能界の仕組みや掟を分かっていなかったことで、結果的に前の事務所には迷惑をかけてしまった」と後に自身が発言している。実際には当時、「浅香唯」の芸名を差し押さえられ、主演ドラマ『スケバン刑事III』が再放送された際にも、新聞のテレビ欄には「浅香唯」ではなく本名の「川崎亜紀」で掲載されていた。また、ヌード写真集の噂に関しては、高須基仁からヌード写真集出版の打診があったことは事実だが、断固として拒否し、ヌードは1枚も撮っていない、と完全否定している。休業直後から、ヌード写真集で復帰するという噂の他にも、連続ドラマで復帰という記事、また本人が雑誌『微笑』で明言した「某大手レコード会社から何月にCDを出すことが決まっている」という情報を含め、何度も復帰時期が報道されていたが、どれも実現しないまま4年半が経っていた。そしてようやく1997年8月、個人事務所「Y-Chord」を設立し、「YUI」名義で音楽活動を再開、メルダックから4年半振りに新曲「Ring Ring Ring」を発売する。また、同年12月には渋谷Egg-manにて復帰ライブを開催。前所属事務所とも和解し芸名を元の「浅香唯」に戻し、タレント・女優としての芸能活動も再開(後に古巣である六本木オフィスと業務提携を結ぶ)。バラエティー番組やドラマに頻繁に出演するようになる。翌1998年8月に復帰第二弾シングル「不器用な天使」を発売、12月には東名阪で『Well, Well, Well '98』と銘打ったライブツアーを行う。このライブタイトルは2006年まで、1999年と2001年を除く毎年12月に開催されたライブのタイトル・シリーズとなった。2000年3月、新宿シアターサンモールで上演された、朝倉薫演劇団 春の特別公演『0021 〜僕は君のために雨を降らそう〜』で舞台初主演を果たす。一度歌を辞めたアイドル歌手が再び歌い出すまでを描いたこの作品は、浅香自身とダブるところがあり、実際浅香の為に書かれた脚本である。この舞台には加勢大周も出演しており、ドラマ『ADブギ』のスペシャル版『AD・リターンズ』以来8年振りの共演となった。2001年12月のライブで、解散していたファンクラブを再結成することを発表。同年4月から9月までフジテレビ系『笑っていいとも!!』に隔週木曜レギュラーとして出演、2002年4月から2004年9月までテレビ東京系バラエティー番組『やるヌキッ!』にレギュラー出演し、活動の幅を広げる。2004年には、CBC制作・TBS系列のドラマ30『冗談でしょッ!離婚予定日』で初の昼帯ドラマ主演を務め好評を博したことから、翌2005年には同じCBC制作・TBS系列のドラマ30『ママ!アイラブユー』で2年連続の昼ドラ主演を果たし、同時に主題歌も担当、インペリアルレコードから7年4ヶ月振りのシングル「笑顔の私」を発売した。2007年9月12日、女児を出産したことを公式ホームページにて発表。現在は子育ての傍ら、芸能活動を続けている。