恋のバカンス

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情熱の花

ウナ・セラ・ディ東京

銀色の道

ザ・ピーナッツ

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ザ・ピーナッツ(The Peanuts)は日本の元女性歌手(デュオ)、俳優である。愛知県知多郡常滑町(現・常滑市)出身、同県名古屋市育ちの双子で、略称「ピーナッツ」。姉 伊藤エミ(本名、伊藤 日出代(いとう ひでよ))、妹 伊藤ユミ(本名、伊藤 月子(いとう つきこ))。ともに1941年4 月1日、愛知県常滑市生まれ。ただしすぐに転居し、子供-学生時代は同県名古屋市で過ごす。所属事務所はデビューより引退まで16年間一貫して渡辺プロダクションに、所属レコード会社は各社の争奪戦となり、ビクターレコード(当時は独立した会社ではなく日本ビクターの一部門であった)と契約寸前まで達したが逆転され1959年4 月2日にキングレコードと契約した。発売したシングル、LPの累計売上は1000万枚以上に達する。愛知県名古屋市立西陵商業高等学校(現・名古屋市立西陵高等学校)を2年生の時に中途退学後、主に名古屋市内などで「伊藤シスターズ」名義で歌っていたが、1958年に同市内のレストランにて渡辺プロダクション社長の渡邊晋にスカウトされ(最初は名ドラマーとして知られたジミー竹内が渡邊に紹介したという)上京。同社長宅に下宿しつつ宮川泰に師事し、歌唱レッスンを受ける(社長宅には当時、事務所の先輩である浜村淳なども下宿していた)。1959 年2月11日、「第2回 日劇コーラスパレード」で歌手デビュー、4月、「可愛い花」でレコードデビュー。1959年6 月17日から1970年3 月31日までフジテレビ系の歌謡番組『ザ・ヒットパレード』のレギュラーに抜擢される。その後1961 年6月4日から1972年10 月1日まで日本テレビ系の人気バラエティー番組『シャボン玉ホリデー』でメイン司会を務めた。日本国外でも活躍し、『エド・サリヴァン・ショー』(アメリカ)や『カテリーナ・バレンテ・ショー』(当時の西ドイツ。現・ドイツ)、『ダニー・ケイ・ショー』(アメリカ)にも出演したことがある。また女優活動も少ないながらも行っており、映画などにも数作出演。中でもモスラでの「小美人」役は現在もなお人気が根強くある。和製ポップスを海外公演などによって世界に広めた功績は大きく、特に当時の東西両ドイツやイタリアでは、日本の歌手と言えば即座に「ザ・ピーナッツ」と連想されるほどの活躍振りも高く評価された。1975 年2月18日に当時東京都千代田区有楽町の三信ビルヂングにあった渡辺プロダクション社屋にて記者会見を開き、現役を引退することを表明(1972年頃より引退を検討していた)した。同年3月31日には番組開始時より数多く出演をした「夜のヒットスタジオ」(フジテレビ系)にて引退記念特集「さよならピーナッツ」が組まれ、続く4月5日にはNHKホールにおいて、高橋圭三司会で「さよなら公演」を興行。この時、渡辺プロの主要タレントがほぼ総出で見届けていた。なお、このさよなら公演は3月から4月に掛けて大阪・京都・名古屋でも行われていた。なお同公演を最後に芸能界を引退した。以後は現在に至るまで一切公の場には姿を現していない。姉の伊藤エミは1975年6月 4日に同じ所属事務所であった元・ザ・タイガースの沢田研二と結婚し、ハナ肇宅の隣に居を構えていた。その後1男を出産する。しかし1987 年1月に離婚した。その後2005 年12月23日より2006年1 月15日まで東京都千代田区にある丸ビルで「渡辺プロダクション創立50周年企画 「抱えきれない夢」 日本のエンターテインメントの50年」が開催され、会場内の「ザ・ピーナッツコーナー」の展示品に、上記のさよなら公演で使用されたマイクが伊藤エミ・ユミの提供により展示されていた。二人が奏でるハーモニーとメロディは美しく温かく、抜群の歌唱力を持つ。ザ・ピーナッツ以降、数多くの双子歌手がデビューするが、ザ・ピーナッツ以上の音楽的才能を持った双子歌手は現れていない。今も数多くのファン及びザ・ピーナッツの現役時代を知らない世代を含めた各年齢層に、その歌声は愛され続けている。