浅川マキ
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再生曲一覧
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ふしあわせという名の猫
夜が明けたら
淋しさには名前がない
かもめ
少年
こころ隠して
夜
眠るのがこわい
町
POSSESSION OBSESSION
午後
見えないカメラ
かもめ - From [Maki Asakawa No Sekai]
めくら花 - From [MAKI II]
裏窓
浅川マキ
13 rooms
詳細
略歴 石川県石川郡美川町(現:白山市)出身。石川県立金沢二水高等学校卒。町役場で国民年金窓口係の職に就くも程なくして上京する。マヘリア・ジャクソンやビリー・ホリデイのようなスタイルを指向し、米軍キャンプやキャバレーなどで歌手として活動を始める。1967年にビクターからEP「東京挽歌/アーメン・ジロー」を発表するも本人と事務所の音楽的指針に大きな乖離があり、当時の出来事がその後の活動に影響を与える。1968年、寺山修司に見出され新宿のアンダー・グラウンド・シアター「蠍座」で初のワンマン公演を三日間に渡り催行、口コミで徐々に知名度が上がる。やがて東芝音楽工業株式会社(現:EMIミュージック・ジャパン)に移籍、1969年7月1日、EXPRESS-レーベルより「夜が明けたら/かもめ」で正式にレコード・デビュー。以後移籍すること無く1998年まで作品を発表しつつステージを主体に音楽活動を行う。特に池袋「文芸坐ル・ピリエ」で1997年まで催行した大晦日連続定期公演は有名である。CDの音質に対して懐疑的であったため、1998年より新譜を発表していないが、2000年以降はジャズ・クラブ「新宿 PIT INN」を本拠地として定期公演を再開。2000年3月26日から11月26日の「新宿PIT INN」では、『毎月・最終の日曜日 浅川マキを聴く』と題し、アカペラによる公演を行った(全9日、昼夜2回。計18公演)。ジャズ、ブルースやフォークソングを独自の解釈で歌唱する姿勢は定評があった。2010年1月17日、ライブ公演で愛知県名古屋市に滞在中、宿泊先ホテルで倒れているのを発見され、搬送された病院で死亡が確認された。67歳没。愛知県警察中警察署によると、死因は急性心不全とみられる。2010年3月4日、「新宿PIT INN」にてお別れの会『浅川マキ「こんな風に過ぎて行くのなら〜浅川マキがサヨナラを云う日」』催行。真赤なバラの花の献花台とメッセージ・ボックスが用意され、彼女の生前の作品が流された。作品に対する姿勢浅川マキは音楽そのものに限らず音質、ジャケットデザイン、ライナーノート、ポスターの配置などにも一貫した美意識を持ち、終生その姿勢を崩すことはなかった。日本国内に於けるアンダーグラウンドを主体とした音楽活動の第一人者であるが、"アンダーグラウンド"と"(いわゆる)アングラ"を混同してはならないと主張。独自の美意識を貫く姿勢を「時代に合わせて呼吸をする積りはない」と自ら表現している。自らの作品に於いて"作詞"の表記を詞ではなく、"詩"を用いている。外国作品を自ら日本語で唄う場合、原作の保つ世界観を損なわぬよう先ず対訳を依頼し、メロディーから受けるイメージも採り入れたうえで推敲し新たに詩作を行う。そのため表記を"訳詩"とせず"日本語詩"としている。ちあきなおみの歌唱で知られる「朝日のあたる家(朝日楼)」やダミアの歌唱にて有名である「暗い日曜日」、ビリー・ホリデイのナンバー「マイ・マン」等に於いて独自に制作した日本語詩などは特に著名である。ライターになる前の藍渕邪子が楽屋を訪れ、「『東京挽歌』の音源を持っている」と告げたところ即座に「棄ててください」と返答した経緯がある。「東京挽歌」が世に出たこと自体は否定せぬものの"歌手・浅川マキ"の意向が反映されていないためディスコグラフィーから外しているという。その経緯はステージ公演中に本人も話題にすることがあった。1993年、東芝EMIが"音蔵シリーズ"と称するアルバム作品群のCD化企画を行い、その中に浅川マキのアルバムが4タイトル含まれていたが発売するも短期間で自ら廃盤にした。「音質が気に入らなかったの、特に『マイ・マン』の(CDの)音はジャズではないんです」と語った。後日別件でEMIを訪ねた藍渕が「浅川マキの作品は浅川本人の意向により廃盤せざるを得なかった」と当時の担当者より取材している。生涯、CDの音質について懐疑的な姿勢を示した。