時の過ぎゆくままに

危険なふたり

恋のバッド・チューニング

あなたに今夜はワインをふりかけ

おまえがパラダイス

さよならをいう気もない

沢田研二

13 rooms
沢田 研二(さわだ けんじ、1948年6月25日 - )は、日本の歌手、俳優、作詞・作曲家。本名、澤田 研二。ニックネームはジュリー(由来は沢田本人が女優のジュリー・アンドリュースのファン)。出生は鳥取県鳥取市だが、後に京都府京都市へ引っ越す。妻は女優の田中裕子。前妻は元ザ・ピーナッツの伊藤エミ。1960年代後半のグループサウンズ全盛期から活躍し、ソロとしてのシングル総売上は1,239万枚(1982 - 1991年の9年間は歴代1位の座を保つ)。ザ・タイガース、PYG時代を含めると1,666万枚になる。京都のダンス喫茶「田園」でドアボーイのアルバイトをしている時にサンダースに声をかけられ、17歳の沢田はローディー兼ボーカリストになった。そのステージを見たサリーとプレイボーイズのサリー(岸部修三(現・岸部一徳))から沢田はリード・ボーカルとして誘われ、翌年の元日にサリーとプレイボーイズに正式加入、グループ名は「ファニーズ」と改めた。ファニーズは、大阪のジャズ喫茶「ナンバ一番」に出演した際に、上条英男、スパイダクション(現・田辺エージェンシー)、そして共演したロック歌手の内田裕也からも声をかけられた。しかし具体的な話が進まなかったため、当時リーダーであった瞳みのるが東京代々木上原の内田裕也宅を訪ね、瞳の熱意の甲斐あってメンバー全員が渡辺プロと契約。上京後、ザ・ヒットパレードのプロデューサーであったすぎやまこういちによって、テレビ番組の出演直前に「ザ・タイガース」と新たに名付けられる。1967年2月5日にシングル「僕のマリー」でデビュー。1969年3月1日、アメリカの音楽雑誌の中でも歴史が長く、最も権威ある音楽雑誌のひとつ『ローリングストーン』 (Vol.28) の表紙に登場。日本版が刊行される前の同誌において、日本人が表紙を飾ったのは、これが最初で最後だった。1971年1月24日、日本武道館で行われた「ザ・タイガース ビューティフル・コンサート」で解散。日本人として初の日本武道館単独公演。以降、PYGを経て、1971年11月1日発売のシングル「君をのせて」でソロデビュー。日本有数の歌手として活躍中。