冬のオペラグラス

恋のロープをほどかないで

不思議な手品のように

夕陽と風とメロディ

新田恵利

13 rooms
新田 恵利(にった えり、1968年3月17日 - )は、1985年におニャン子クラブの会員番号4番としてデビューした日本の女性タレント。オフィスウォーカー所属。ソロデビューした時に歌った『冬のオペラグラス』がヒットした。上福岡市立第一中学校(現・ふじみ野市立福岡中学校)→埼玉県立福岡高等学校卒業。1985年4月、おニャン子クラブ会員番号4番としてフジテレビ『夕やけニャンニャン』に出演。すぐに自分は芸能界に向いていないと思い番組スタッフに辞めたいと申し出るが、「週刊文春喫煙事件」で5人のメンバーが脱退した為に出演を継続する(この時点で会員番号のトップになる)ことになる。7月、おニャン子クラブのデビュー曲『セーラー服を脱がさないで』でフロントメンバーに選ばれ、以降おニャン子クラブの「顔」として人気を博す。高校卒業後(当時は高校三年生)もタレント活動を続けて行きたいとスタッフに意向を伝え、芸能事務所「ボンド企画」に所属。1986年1月1日、シングル『冬のオペラグラス』でソロデビュー。オリコン初登場1位となり、30万枚以上の売り上げを記録する(当時は公式に女性初のデビュー曲オリコン初登場1位と発表されたが、その後オリコンの規定が変更されグループからのソロの場合はデビュー曲と見做さないことになったため、現在のオリコンの公式記録では女性初のデビュー曲オリコン初登場1位は内田有紀となっている)。「100万ドルの笑顔」と称され、シングルのジャケットをあしらったノベルティ「新田トランプ」は破格の値段で取引された。以降も定期的にシングル、アルバムを発売する。ソロデビュー直前の1985年12月24日、父親が急逝している。そのため年内は「夕ニャン」を欠席した。ビデオ『臨海学校』の撮影には参加したが、撮影先のハワイで高熱で倒れ(肺炎寸前だった)入院した。1987年におニャン子クラブが解散した次の年以降、人気が下火になる中、アルバム内で「絵梨」というペンネームで作詞をしていたこともあり、1990年3月に「作詞家になりたい」と芸能界を引退(ただし、休業中及び復帰後も作詞家としての活動は一切していない)。ラストシングル(本人作詞)、ラストアルバムの発売、ラストコンサート(ビデオ化されている)、テレビ出演などさまざまな形でスタッフやファンに見送られる。1994年に写真集とエッセイで芸能活動を再開。1996年(平成8年)8月8日、『フジテレビの日』(8が3つ揃った日でお台場へフジテレビが移転する直前)に一日だけ『復活夕やけニャンニャン』として番組が復活し、そのイベント担当だったフジテレビ社員と後に結婚。2002年にはおニャン子クラブが一時的に再結成し、初期メンバーを中心に新曲『ショーミキゲン』をリリースしている。また、同年12月5日放送の『2002FNS歌謡祭』では『ショーミキゲン』『セーラー服を脱がさないで』を後期メンバーを含み熱唱している。ナインティナインの岡村隆史が新田の熱烈なファンだったことから、『とぶくすり』に「歌のお姉さん」として(事前に岡村に知らせず)出演した。また、後の『めちゃイケ』でセイン・カミュやあさりどなど、かつて新田ファンだったタレントと共に新田の自宅を訪ねる企画が放送され、当時(1999年)の同番組の最高視聴率を樹立した。その後は女優、作家・エッセイストとして文筆活動を行っているほか、東京のコミュニティFM局「Ginza'RADIOCITY」のパーソナリティーもしている。2002年、期間限定で復活したおニャン子クラブに参加。この頃から布川敏和、堀ちえみなどのように「当時の裏話を語る80年代アイドル」としてテレビ出演する機会も増える。2007年、福岡県嘉麻市にたけし軍団の井手らっきょが中心となって発足した誕生した硬式野球クラブ「嘉麻市バーニングヒーローズ」の応援団を務める。初期のおニャン子クラブにおいては国生さゆり、河合その子と共に人気を博した。「素人らしさ」を売りにする初期のおニャン子クラブにおいて、新田はそれを強く具現化しており、当時を知る者には「おニャン子クラブ=新田恵利」とする向きも多い。逆に、そのごく普通の雰囲気を前面に出したおニャン子クラブが人気を得たことが、1980年代の「アイドル黄金時代」を終結させ、1990年代の「アイドル冬の時代」を招いたきっかけとも言われる。しかしながら、おニャン子以前にデビューした中森明菜や小泉今日子、おニャン子解散後に台頭して来たいわゆるアイドル四天王などと比較して、アイドルとしての素材面では劣っていたという見方もあり、番組内での新田を知らない世代には、なぜ人気が高かったのか理解し難い面があるとの指摘もある。特に歌唱力不足は否めず、和田アキ子に「ベストテン観てて、新田恵利ちゃん?あたし本当にテレビ壊れたと思ったのよ」と言われたり、アニメ『愛の若草物語』の主題歌『若草の招待状』が早期に差し替えになった(視聴者からクレームが殺到した、という噂もある)こともある。このような背景からか、リアルタイムで見たことが無い世代(ポスト団塊ジュニア以後生まれの人たち)には知名度が低く、「おニャン子クラブ」は知っていても「新田恵利」は知らない者も多く、1998年12月放送の『あの人は今!?』で取り上げられた彼女について、レポーター役の稲川淳二が渋谷109の前で高校生達に「冬のオペラグラス」のジャケット写真を見せながら質問したところ、その中のひとりが「誰この人…?」と答える場面があった。グループ解散後、比較的早い段階で(一旦)引退したことから、「おニャン子クラブ・芸能界から消えた」という印象が強く、「消えた元アイドル」の代名詞にもなっている。上記の岡村隆史のほか、よゐこの濱口優、同じ埼玉県上福岡市出身の太田光も新田のファンだったと告白した事がある。また、TBS系列COUNT DOWN TVの1998年特番でPUFFYの大貫亜美が「私、新田恵利さんのファンだったんです」と発言した(そのとき、共演した番組の司会者である恵俊彰が「地味な方ですよね」とリアクションした)。おニャン子クラブにはいくつかの派閥があり、大きくは「新田派・国生派」に分かれていたと言われていた。これに関して当人達は長らく肯定も否定もしていなかったが、双方が挙げる仲の良かったメンバーの名前もほとんど重複しておらず、噂に信憑性を与えていた。近年になって「遊び感覚でやっていた私達と、真剣に芸能界を目指していたさゆりちゃん達(国生、河合、城之内早苗らいわゆる「(CBS)ソニー組」か)とは合わなかった」と、派閥があったことを認める発言をした(この他に、「ジャニーズの話題で騒いでいる人達とも合わなかった、とも発言している)。国生が提案した共演の企画もずっと拒否し続けていたという。しかし2002年の一時的再結成では主要メンバーとして共演を果たしている。なお、この一時的再結成のときに収録されたDVD『未公開映像 ザ・バックステージ』特典映像の対談で、新田と国生が和解した。自身が挙げる仲の良かったメンバーは同学年の中島美春や永田ルリ子、ソロデビューで多忙になったときにねぎらいの言葉をかけてくれた河合その子、他に高井麻巳子、山本スーザン久美子、布川智子、今でもゴルフ仲間だという岡本貴子など。た最近は渡辺美奈代とメールのやりとりや、ゆうゆこと岩井由紀子とも連絡を取っている。新田はおニャン子のメンバーについて「家族や恋人のことも話せる親友、ファッションや芸能の話をする友達、挨拶するだけのクラスメイトに分かれていた」、「言われるときはズバッと言われたが、陰湿ないじめがあった訳ではなかった」、「他のグループの人達の話を聞くと、おニャン子って仲が良い方だったんだなって思う」と発言している。後に、新田との複雑な関係を国生さゆりも語っており、先にソロデビューを果たしている新田に対して、嫉妬心もあり複雑な心境だった事を認めている。又、自身のソロデビューが決まった時も、新田恵利ちゃんには絶対に負けたくなかったと語り、当時、同じくソロデビューを果たしている河合その子よりも強いライバル心を抱いていた事がうかがえる。このような2人の微妙な距離感が、いわゆる「派閥」論争に発展したと推測される。 但し、新田・国生ともに相手を貶めるような発言はしておらず、特に新田は「さゆりちゃんは人の悪口とかを言う性格ではない」と語っており、仲は良くなくても一定の信頼感や仲間意識を持っていたことが伺える。芸能界には興味が無く、テレビに出たのも賞品のハワイ旅行目当て(ハワイは国生さゆりにもっていかれた)。おニャン子入りも、当時時給380円のケーキ屋さんのバイトより出演料5000円に目が眩んだ為。更に番組出演も週3日とスタッフにお願いする等、まさにバイト感覚だったと本人は語る。人気が上がると一部ファンに実家の傘や植木鉢、表札などが盗まれる、ストーカー化したファンの車に母が轢かれる、ファンに自分の部屋を荒らされる等の被害に合い、一時期人間不信になった事もあった。特技はふんどしを洗う事(大正元年生まれの父が、ふんどしを着用していたため<2008年11月10日なるとも出演時本人弁>)。