Yellow Magic Orchestra
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再生曲一覧
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Rydeen
コズミック・サーフィン
シムーン
Behind the Mask
Day Tripper
Absolute Ego Dance
東風
中国女
Castalia
Perspective
Insomnia
Solid State Survivor
マッド・ピエロ
ブリッジ・オーバー・トラブルド・ミュージック
Focus
Tong Poo
Opened My Eyes
Firecracker
Wild Ambitions
Lotus Love
Cosmic Surfin'
1000 Knives
Yellow Magic Orchestra
13 rooms
詳細
イエロー・マジック・オーケストラ(Yellow Magic Orchestra)は、1978年に結成された日本の音楽グループ。略して「YMO」(ワイ・エム・オー)と称する。YMOはテクノの歴史の中でも初期のグループであり(当時は具体的に「テクノ」というジャンルはなく、それは後に定着したものである)、また彼らの音楽にはロックの要素もあったことから、現代のようなテクノにカテゴライズできるとは簡単には言い切れない。しかしここでは、日本のテクノ最初期のグループとして紹介する。細野晴臣(ベース) エイプリル・フール、はっぴいえんど、ティン・パン・アレーを経て、YMOを結成。YMOのリーダー・プロデューサーであり、シンセサイザーとコンピュータを用いるYMOの音楽スタイルを打ち出した。宗教や民俗学など神秘主義的な趣味があり、それらもYMOに影響を与えている。ライブではほぼベーシストに徹し、特筆すべきはシンセサイザーをベース代わりに演奏していたことである(ただし、曲によってはエレクトリックベースを使用している部分もある)。YMO散開後は特にアンビエント、エレクトロニカ等のジャンルを取り入れている。高橋幸宏(ドラム・ヴォーカル) サディスティック・ミカ・バンド、サディスティックスを経てYMOに参加。YMOをきっかけに機械のビートと同期してドラムを演奏した最初期のドラマーである。また、ライヴではドラムを叩きながら自らヴォーカルをとるという異色なスタイルで演奏していた。ファッションデザインの技能を生かしてYMOではステージ衣装のデザインを手掛けた。YMO散開後はソロ活動とともに、様々なミュージシャンとのコラボレーションやプロデュース業を展開している。坂本龍一(キーボード) YMOで唯一、音大出身のミュージシャン。スタジオミュージシャンとして活動した後、YMOに参加。YMOでは松武秀樹とともにレコーディングにおいて楽曲を構築する重要な役割を果たし、またライヴでは楽曲のアレンジを一手に引き受けた。YMO散開後は映画音楽で成功するなどソロ活動を展開している。担当パートについては主に演奏されるものであり、一部のレコーディングやライブ、TV番組では上記以外のパートを担当することもあった。イエロー・マジック・オーケストラという名称は、細野が70年代後半あたりに提唱していたコンセプトである「イエローマジック」から来ている。これは白魔術(善や白人などの象徴。特に白人音楽)でも黒魔術(悪や黒人などの象徴。主に黒人音楽)のどちらでもない東洋人独自の音楽を作り上げるとして、魔術の色を人種の色にかけて提唱したのが黄色魔術(イエローマジック)である。細野がYMO以外で「イエローマジック」の名前を使用しているものとしてはティン・パン・アレーの曲「イエローマジックカーニヴァル」、細野のアルバム『はらいそ』の作成者名義「ハリー細野とイエローマジックバンド」が挙げられる。また坂本のアルバム『千のナイフ』のライナーノーツの細野の寄稿文でも、イエローマジックについての記述がある。1980年代初頭に巻き起こったテクノ/ニューウェーブのムーブメントの中心にいたグループの一つであり、シンセサイザーとコンピュータを駆使した斬新な音楽で、1978年に結成されてから1983年に「散開」(解散)するまでの5年間で日本を席巻した。活動期間中には海外でのレコードリリース、及びコンサートツアーも行っており、世界に受け入れられた数少ない日本の音楽グループであると一般的に認知されている。1993年に一時的に「再生」(再結成)しており、また2007年にも再び再結成している。当時、シンセサイザーやコンピュータを駆使した音楽としては既にドイツのクラフトワークが有名であったが、それらの技術を用いた音楽はまだ珍しい時代であった。そんな中で現れたYMOの音楽は、日本において当時の若い世代を中心に熱狂的に受け入れられた。また英米においても少なからぬ音楽的影響力を残しており、例えば「U・T」(アルバム『BGM』収録)はトランス・テクノ、「ライオット・イン・ラゴス」(厳密には坂本のソロ『B-2ユニット』の曲だが、'80年のYMOのライブで好んで演奏された)はヒップホップのそれぞれ始祖であると、後に英米で評されている。YMOはそのファッションも特徴的であった。特に、初期のアルバムジャケットやライブでメンバーが着用していた「赤い人民服」(高橋のデザインによる、大正時代のスキー服をイメージした衣装であったが、その容貌が中国の人民服と似ていたために、一般的に「赤い人民服」と呼ばれるようになった。メンバーが人民帽を着用していたのも一因かと思われる)、そして、すっきりとした短髪、かつもみあげの部分を剃り落とす、当時の若者の間でも流行した「テクノカット」と呼ばれる髪型(特に、初期では刈りあげ+もみあげ無し)の2つは、YMOのビジュアルイメージとして一般に広く認知されており、彼らのトレードマークであったと言えるだろう。1990年代以降に活躍する日本のミュージシャンの中に、YMOの音楽に影響を受けたと自称するミュージシャンが数多く現れた。彼らは「YMOチルドレン」と呼ばれることがある。その代表的アーティストは槇原敬之、宮沢和史(THE BOOM)、高野寛、テイ・トウワ、電気グルーヴなど。